hyla’s blog

はてなふっかーつ!

切ない茶会


 茶会のお手伝いに、動員された。習っている先生の兄弟弟子であった先生の茶会で、その方も恐らく80歳をずいぶん超えているご高齢の先生だ。同流の兄弟弟子の先生方が茶会を催すときには、どの方が亭主であれ、他の方は自分の教えているお弟子を連れて応援に回る。今回もそうしたお手伝いで、これまで何度もお手伝いに行った先生だった。


 けれど、久々に参加した会場でその先生の様子を見て、ああこれは大変だと思った。道具の組み合わせもなんだかちょっと変だし、先生の亭主としての受け答えがお客と上手くかみ合っていなくて、それは耳が遠いからというだけではない感じだった。それに、当日集められた人数も少なすぎる。「半東(亭主を助けて、表の様子を見ながら裏方の人にお茶やお菓子を出すタイミングを指示したりする役目)をして」と言われて席に入ったけれど、裏も表もぎりぎりの人数だったから、半東の仕事だけではすまず、半東の仕事をしながらお運びもやり、裏では茶筅も振るという有様だった。


 そしてお昼頃に、うるさいので有名なある先生がお正客でやってきた。私たちの流派とは違う流の先生だけれど、とにかく正客をするのが好きで道具が好きで、道具についてあれこれけんか腰で聞いて来るので有名な方だ。そして、亭主が答えられなかったりすると、そんな事もわからないのか、とバカにしたような態度をするので、亭主だけでなく居合わせたお客までもがいたたまれなくなってしまう。だから、お茶席を持つ先生方は皆「また来た」と陰で言う、そんな先生だ。
 
 無事に終わって…、と祈るような気持ちで席についたけれど、お正客はやはりきつく亭主である先生を問い詰め始めた。そして、先生が答えられないでいると、「こんなお茶席初めてや。」と明らかにあざけって言う。更に、自分が道具について問い間違えたときには、「こんな亭主と話をしてたから、こっちまでおかしくなってしもた。わっはっは。」と笑い、「そんな事を言うのは失礼で。」と隣の奥様がなだめると、「どうせ聞こえないんだから、かまわない。」とさえ言ってのけた。


 そして、半東として座っていたくせに、私は何も言えなかった。先生に代わって道具について説明しようにも、その日初めて見た道具だし、道具について私も何も聞けなかったので答えられない。それでも、いくら何でもその言いようなない。悔しくて、正面切ってその人に前に行って、「失礼な事を言うな。お正客のくせに。」と言ってやろうかと思った。けれど、さすがにもてなす側がそれをしてはいけないと、黙ってうつむいて座っていた。
 でもそれは単に、私が弱虫だった事の言い訳かもしれない。大勢の人前であざけり笑われて、それでも言い返せない先生に代わって、お手伝いではあっても、半東として私が受けて立たねばいけなかったと思う。
 「至らぬ点はお詫び申し上げます。ただ、皆で頑張っております。先生も万全ではありませんが、体調が悪い中ではあっても、長い間お茶を続けて来られた先生が、お茶席をしなければならないとそれだけを考えて一生懸命用意されたお茶席です。正客さまには、座を和やかに楽しいお席にできるように是非よろしくお願いします。」と言えば良かったのだ。「いろんな流のお席で、毎週のようにお正客を努めておられる先生ですから、おできになりますよね。」くらい言ってやればよかったのだ。


 けれど、臨機応変に上手く言い返すことが下手だし、弱虫だし、とっさに返せなかった。根性がなかった。

 
 
 お茶は、習っている先生がたまたま非常に熱心な方だったので、止められずに今まで続けている。仕事も、家の事もある中での稽古事は負担が大きすぎて、出来れば止めたいのにと思いながら習っている。そして何より、お茶そのものは決して嫌いではないけれど、先生という名のつく方々のこうした言動を見ると、つくづく嫌な世界だと思う。
 お茶の稽古をしている時先生は、先生自身が「教授者になって教えたい」とそのまた先生に言った時、「お茶は、見かけ通りの綺麗な世界ではないですよ。裏は汚い事もようけあるから覚悟しないといけませんよ。」と言われた、と繰り返し言う。だから、隙を見せるような事をするな、稽古しろ、ということなのだけど、そもそもお茶人さんなら人の隙を見て、人をあざけったりするべきではないだろうと私は思う。全く知らない人同士でも、亭主もお客も、それこそ一期一会で協力して楽しい場になるよう努力するのがお茶席ではないのか。
 でも、現実にはそうではないし、それを知っているので、私はお茶にのめり込みたいとは思わない。

 
 それでも、今日のお席は切なかった。
 

 人が老いる事は、悲しい。元気だった時に様々に活躍していた人が、あの人が…、と言われるほどに変わっていくのを見るのは悲しい。それは、身近にいる者ほどつらい。裏で手伝っていた先生の娘さんは、先生が席で笑われているのを聞いて、どう思っただろう。お弟子さんたちは、どうだっただろう。お手伝いに行っただけの私でも、悲しかった。 
 中には状況を察して、「これは○○ですね。××がよく合ってぴったりですね。」と話をリードしてくださるお正客もいて、そんな時にはほっとした。お世辞でも、「本当に良い席でした。」と言って帰るお客様には、それはひょっとしたら嫌みだったのかもしれないけれど、それでもそう言ってくださった事に感謝した。

 
 人が年をとると、できる事は少なくなる。それでも、そのできる事を精一杯やろうとしているときに、そこに居合わせた人は、ただただその出来た事のみを受け取めてあげて欲しい。介護者はそれすらもなかなか難しいからこそ、良くできた、と言ってあげて欲しい。
 年をとった人は、失われて行く自分に混乱し不安になりながら、必死に自分を保とうとしている。フォローする人は、悲しみを抱えながら介護に疲れ切っている。そういう時に、出来ないことをあげつらうのは、余りにも思いやりのない行為だ。本人にはわからないから良い、と思ったかもしれないけれど、それは介護に疲れきって口汚く罵り、遂に手を上げてしまう介護者の暴力より、もっとずっとひどい言葉の暴力だ。たまたまその場にいただけで、何をされたわけでもないのに、なぜそんな事が言える?そして、それは介護者を追い詰める言葉になる。聞いてしまった人も悲しくなる。
 
 だのに、それがどれだけひどいことか、理解できない人も世の中にはいるという事実が悲しい。



 
 私は何もできなかった。
 あのお席をもう一度やり直すことはできない。
 

 全ては、一期一会…。