hyla’s blog

はてなふっかーつ!

「ヒトはどうして死ぬのか」

 ずっと以前に買っていたのだけど、読まずに放置していたこれを読んだ。
 
 

ヒトはどうして死ぬのか―死の遺伝子の謎 (幻冬舎新書)

ヒトはどうして死ぬのか―死の遺伝子の謎 (幻冬舎新書)



 テーマがアポトーシスだったので、とりあえずそういうネタも仕込んでおこうと買ったもので、著者はアポトーシスについて研究している薬学の専門家。その中でもゲノム創薬の人らしい。
 で、アポトーシスそのものについての様々なケースの話はそれなりに興味深いところはある。がん細胞のアポトーシスのメカニズムとか、同じアポトーシスでも、再生系細胞と非再生系細胞ではその細胞死のメカニズムに違いがある、なんて点は興味深い。
 けれど、この本のタイトルともなっている「生命はなぜ死ぬのか」と言う点を著者が考察したらしい最後の章はどう考えても誤りが含まれていて、ちょっとどうかと思われる。
 
 
 6章のタイトルは「「死の科学」が教えてくれること」となっている。そして、無性生殖を行っていた核相nの生物が有性生殖を行い多様性を獲得し始めたたと同時に「死」が生じた、と説く。有性生殖を行うために、減数分裂を行って配偶子をつくる際に遺伝子の組換えで多様な遺伝子組成が生じる。その中にはには「不良品」もできるから、それを削除するためにアポトーシスが生じたというのだ。
 
 有性生殖が多様性を作る生殖法であることは事実だし、その中で染色体の乗り換えによって遺伝子の組換えがおき、更に多様な遺伝子構成を持つ染色体が生じることも事実。けれど、多様性の最も基本的な仕組みは、相同染色体が減数分裂の第一分裂時に多様な分かれ方をすることに由来するものだ。人であれば、組換えがおこらなくても、減数分裂だけで2の23乗の染色体構成があるのだから、有性生殖によって子供は2の46乗通りということになる。
 生物の核相が2nになることは、相同染色体を持つ(一つの形質につき2つずつ、すなわち予備の遺伝子を持つ)ことにより、遺伝子の起きた変異によって発生する障害をカバーすると同時に、有性生殖を通して爆発的に多様性を高める。多様性の獲得にはこちらの方が重要なのに、この点を無視して、いきなり組換えに話を持って行くのはどうかと思われる。

 
 更に、新しい遺伝子構成を持つ細胞に対して選別が必要として、こんな記述がある。

新しい遺伝子組成を持つ卵は必ずしも全てが望ましいとは限らない。種の保存の観点から見て、不良品であるとわかった場合は、個体となる前に排除する必要がある。


 組換えだけでなく、普通に有性生殖するだけでも新しい遺伝子構成は産まれるけれど、いずれにせよ、そうやって生じた新しい遺伝子組成が上手く機能しないことは十分あるだろう。たまたま致死的な遺伝子を両親から受け継ぐケースだってあるだろうし、遺伝子が相互作用して一つの形質を産む場合、そのの組み合わせによってはうまくいかないかもしれない。だから、有性生殖を始めると同時にアポトーシスが必要になった、「死」が産まれたというのはそれなりにわかる。
 けれど、そうした新しい遺伝子組成の細胞に対して、「種の保存の観点から見て不良品」であるかどうかで選別されるというのは変だ。まずは細胞がうまく機能するかどうか、更に多細胞生物なら、個体として機能する状態をつくれるかどうか、すなわち細胞や個体のレベルでアポトーシスが機能するのはわかるけれど、個体を超えた「種の保存の観点」なんてどうして細胞に判断がつくのだ?細胞がうまく機能し、個体が機能し、そして生殖ができて、種の保存があり得る。けれど、いきなり「種の保存の観点から見て不良品」という事で受精卵や胚レベルでアポトーシスが起きるというのなら、それは明らかにおかしいと思う。
 
 
 また突然変異によって生じた個体に対して、「死」は選別の仕組みとして働きうるとして、こんな風に書いている。 

生物が有利な突然変異を進化の原動力として取り込むものであれば、大前提として「その突然変異が優れたものかどうかを選別する能力が備わっていないといけない。

 
 また同時に、「有利な突然変異」をしなかった古いタイプの個体についても「死」は選別の仕組みとして働くとしてこう述べる。 

有利な突然変異によって新しい個体が産まれた場合、それを子孫に引き継いでいくには、元の個体を消去した方がよいと考えられます。古い個体が生き残っていると、せっかくの好ましい変異が元の遺伝子と合体し、薄まってしまうことにもなりかねません。

 

 ってね。これを読んだ人が、偉い人の言うことだし、とこの話を鵜呑みにしてたら怖いなあ〜。

 
 突然変異は様々な要因で生物に一定の割合で生じるだろうけど、それが進化の原動力の一つであることは間違いないだろうけど、個体に「その突然変異が優れたものかどうかを選別する能力」が備わっている必要は無いし、そんな事はしていない。そもそも突然変異が形質の変異として現れた場合でも、それを選別するのは環境だ。その形質が生存に少しでも有利であれば生き残り子孫を生じるから変異は広がっているだろうし、相対的に不利なら少しずつ個体が、そしてその変異遺伝子も減少していくだろう。自然選択、適者生存といった概念は、今でも進化の基本概念だと思う。

 
 更に、突然変異が有利に働くとは限らないし、むしろその多くは生存に不利だろう。稀に生存に有利な形質が生じたとしても、だから古いタイプの個体を消去する方が良いなんて事は絶対にない。それは遺伝的な多様性を失わせるものだ。環境は常に変化していくものなのだから、今生存に有利な形質が、環境が変われば生存に不利になってしまう事はざらにある。だから、遺伝的多様性を維持することが種の存続には重要になる。その多様性を低下させるように、遺伝的均質性をもたらすようにアポトーシスが働くような種なんて進化しないと思う。同種の個体群の中にも、様々な変異が常に存在すること、遺伝的多様性の重要性なんて、とても今時の話題なんだけど。
 


 でもって、遂には「遺伝子は利他的存在である」「遺伝子が真に利己的であるためには、利他的に自ら死ぬ自死的存在でなければならない。」と語る。個体の生存の為に細胞死は時に必要、はいいけど、そうした「個」が「全」の為に犠牲になることは重要で、個と全の関係は人と地球の関係でもあり、地球と宇宙の関係でもある。とまでもって来られると、本気にな〜。なら、「全」である地球の為に「個」である人は死んだ方が良いと思うんだなあ。人は地球において、異常増殖する点でガン的存在じゃない〜?
 

 こういう発想はSF的には大好きだし、ある日人類の間で集団自殺が多発して、やがて人類が滅亡するななんて話は実際いろいろある。「百億の昼と千億の夜」の惑星開発委員会のベータ型開発とかでもそうだけど、けれど、百億の昼と千億の夜の果てに、シッダルダや阿修羅王らはそれを「べータ型開発とはよく言ったものだ。ベータ型開発とは、破壊と消滅に至る開発だったのだ」と看破し、戦うのだ。
 

 生物は常に生き続けようとする。増えようとする。種のために個体が犠牲になろうとはしない。淘汰は個体レベルで働き、利他的に見える行為も実は利己的行為なのである、という社会生物学の概念は20世紀の生物学の大きな発展だ。




 アポトーシスは魅力的な概念だ。それから人は利他的存在であれ、と望むのは良い。けれど、進化なんてことまで語るなら、もう少し丁寧に調べて注意深く言葉を使って考えを深めて欲しいと思う。