欲張りすぎるニッポンの教育
先日借りた本のうちの一冊。
- 作者: 苅谷剛彦,増田ユリヤ
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/11/17
- メディア: 新書
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新書でしかも対談集だけに非常に読みやすく、さくさくと読めてしまう。で、一読して、対談相手の増田氏と苅谷氏の力量の差を感じた。なんだか、大学生と大学教授の対談という気がした。別に苅谷氏が東大教授だからと言うわけでないが、中身のある議論をしているのは、傾聴に値する意見はというと、苅谷氏の意見の方なんだな。つか、増田氏の問題意識とか、自分の意見はよく見えなかった。
そういう感じが残るのは、社会学とジャーナリズムの差なのかもしれない。
少なくとも、苅谷氏の現状把握は、多くのデータと、それに基づく分析から成り立っている。そういうところは、自然科学とも似ている。自然科学では、何を語るにせよ、データが不可欠だ。正確に再現可能なデータをとり、そこに有意差があるのかどうか検定し、それを元に考察するのが自然科学。社会学もやはりデータを社会の大きな流れを読み取るだけに、その分析は信頼できるように思う。
それに対して、ジャーナリズムは個々の事例を元に、物語を作り上げる、ミクロからマクロを見ている思う。もちろん、取材する方にそれなりの経験と知識があれば、個々の物語からでも正確に大きな流れをつくることはできる。しかし、その分野についての十分なフィールドワークのないままに限られた知見から物語を描けば、一面的になる可能性が高い。
とはいえこれは、教育問題についてその現状をよく知っている人間のミクロな視点と、それを深く分析出来る人によるマクロな視点の両方から日本の教育について考え、その問題を焙りだそうという本なのだろう。
で、焙り出された問題はタイトルに集約されている。
日本の教育は、あまりにも欲張りすぎであることを自覚しないまま、いろいろな役割を抱え込んできている。その事を自覚しないままに、教育環境の整備に十分にお金をかけずしなければいけないこと、ポジティブリストを更に増やしていけば、個人の選択を中心にした仕組みへの移行を更に加速させる。それは、不平等な社会としての学習資本主義の本格的な始動を意味する。そのきしみを応じるように、規範意識の強化や国を愛する態度の寛容が求められるようになるだろう。
改革すればするほど悪くなるように見える教育の悪循環を脱するためには、ニッポンの教育の身の丈、出来ることできない事を正しく認識し、教育への過剰な期待を解除することから始める他ない。 ってところだろうか。
では、今何をするべきなのだろう・・・。