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進学格差

 先日の本に続いてこれを読んだ。

進学格差―深刻化する教育費負担 (ちくま新書)

進学格差―深刻化する教育費負担 (ちくま新書)

 

 2冊の本を読みながら、じゃあ今必要な事は何なのだろうとずっと考えてみた。今教育が疲弊しかかっていることは事実だろう。そういう教育現場を改善するために、何が必要なのだろう。一番重要なのは何なのか、と言えば、本当は公教育に十分お金をかけることなんだろう。教育は、国の発展を支えるものなんだから、それを国が責任持って行わなくてどうするんだろう。どれほど財源が不足していたとしても、教育費とけちることは、未来への投資をけちることだ。今お腹が空いたからと言って、自分の脚を喰うタコのように、自分の未来を食いつぶすことだ。
 
 
 日本は、伝統的に教育に関わる費用を家庭に依存していた。家庭はまた、無理をしてでも教育費にお金をかけてきたけれど、今の経済状況ではそれが不可能な層が増えてきているということは、明確な事実だ。

 
 「進学格差」の中では、「教育に投資をすることは、実はかなりに利回りのいい投資と言える」と、書かれていた。投入した資本に対して、将来労働者となった時に彼等が稼ぎ出す資本は、平均6〜7%とか。ならばこそ、家庭は子供の教育に投資をしてきたのだろう。教育をリターンの高い投資と考えるなら、家庭ではない投資できるお金を持つ第三者から投資を引き出すという事もあり得る。例えば、国公立大の進学者に限る教育ローンなんて、ファンドにすれば売れそうだ。つか、それこそアメリカで起こったことか。
ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)でも、進学はしたものの膨大な教育ローンの返済を抱え、だのに職を得られない人々について述べられていた。


 しかし、国を支えるという観点で考えるなら、やはり労働者を育成する教育は、国の責任で行うべき問題だろう。だのに、低成長の中で財源が不足し、国の教育費の総額を減少させるために、メリハリをつけた予算だてなんてのが産まれてきている。
 

 均一性を重視するのではなく、エリート教育を重視する。それはこれからの日本にとって、是か非か?

 
 もちろん、底辺を創らず、エリートも創るということが理想だろう。けれど、もしそれが出来ないならば、どちらをより優占するべきなのか。教育の機能として、資本の再分配と格差の拡大とどちらを選ぶのか。そういうマクロな視点で、日本の未来を考えるのはまさに政治だろう。そういう政治家は・・・・いないなあ。

 

 今の体勢で学校が出来ることは、もう既に限界にきている。改革という名の下に、また新たなことを抱え込むのではなく、出来ることを出来ないことを分けていくしかないのかもしれない。
 
 しかし、教育の現場で行われていることは多岐にわたり、それぞれが密接に関係しており、1つ1つの事を分離することは難しい。また分離することが、むしろ不合理になってしまうところもあるのではないか。問題を起こしがちという事を知った上で、同じ場所で知識教育が行われ、進路指導が行われるからこそ、的確に指導ができるということもあるはずだ。そして、それこそが日本の教育の強みであったともいえる。

 
 教育は、容易には分離できない有機的な営みだ。矛盾を内包しつつ、曖昧さを武器に、複雑に絡み合ったカオスとも見える日本の教育は、それだからこそパワーを持っていたのかもしれない。
 
 
 混沌に目鼻をつければ、混沌は死んでしまう。


 曖昧模糊とした日本の教育のパワーを最大限発揮させるには、制約しすぎることなく、それに携わる人を増やすしかない。手間のかかる生徒が増えている中で、この状況を打破するには、一人の教師が対応する人数を減らすよりないと思う。正規雇用される教員の数を純粋に増やし、一人一人に十分に時間をかけられるようにする他ないだろう。
 
 
 そして、教育という名の怪物を歩ませる十分な餌を与えることだ。



 餌は、単純に高収入とかではない。単純に、業績に応じた賃金とかいうのでもない。
 そして、ほとんどお金もかからない。

 
 
 教師にとって最も美味しい餌は、ひどく単純なことだ。
  子供の、「先生で良かった」。
  保護者の、「お世話になりました」。

 
 そんな言葉と笑顔こそが、明日の活力になっていくと思う。
 そういう言葉で、多分教師はバカだから、明日も頑張る。


 
 教育問題を考える時、教育に対する過剰な期待を持たずに、議論することが肝要、というのが苅谷氏の意見。そして、様々な事を抱え込みすぎて、破綻しかけているのだけれど、そんな教育を良くするには制度的な改善が不可欠で、それは今日明日どうになるものでもない。
 


 けれど、「ありがとう」を言う事は、この瞬間にでも伝えようと思えば言える。また、それを子供に教えるかどうかは私たち次第だ。

 

 学校を、教育というサービスを提供するものととらえ、「金を払っているのだからサービスを受けられて当然」とするのも流れもある。しかし、教育のみに限らず、誰しもが社会の一員として、様々な社会システムの構成員であるはずだ。そして、社会のシステムもそれを支えるのは人だ。クレーマーになって文句を言えば、相手はほとんどの場合不愉快になるし、そういう相手から得られるものは少なくなる。しかし笑顔と「ありがとう」という言葉の方は、互いに優しい気持ちになるし、それによって結局自分の望む結果を引き出しやすいはずだ。「先生 ありがとう」と笑顔で言う子供とクレーマーの親を持つ子供なら、より一層心配りをしたくなるのはどちらか。それは誰でも判ることだ。

 
 
 だから、教育を良くするのかしないのかは、国家や学校や教師と同時に、それを支える私達にもかかっているかもしれない、と思ってみる。




 しかし、言うはやすし・・・なんだな。