hyla’s blog

はてなふっかーつ!

ザ・ロード


 ピュリッツァー賞もとった作品、ということでちょっと読みたいと思ってたら図書館に入っていたので借りてみた。

ザ・ロード

ザ・ロード

 
 お話は至極シンプル。

 恐らくは核戦争によって文明が崩壊し、食料もなく地球が寒冷化し、人が人を食らうような世界で、父と子が生き延びるために南へ向かってショッピングカートを押しながら旅をする。そういう話。


 
 文章は、世界の描写などは簡素ではあってもなかなか凝った表現。ちょっと句読点が少なくて読みにくいところもあるが、イメージは湧く。父との子の会話は、非常にシンプルで、簡素な分深く残る。場所の固有名詞や、主人公の二人の名前さえ明確にされず、一種の寓話といっていいだろう。その中で、絶望せざるを得ない世界においても、生きようとするべきなのか、未来に希望はつなげられるのか、と言うことを考えさせたかったのかな、と思う。

 
 一気に読ませて、もし小さな子供がいれば、その子の寝顔を眺めにいきたくなるだろう。そんな気分にさせる。



 そういう中で、一番気になったのは、主人公の妻のことだ。核戦争後に女性は子供を産んで、そしてもう耐えられないと、去っていく。いつか殺されるなら、ひょっとしたら、自分の子供が殺され食われるところをさえ見なければならないなら、未来に絶望しかないなら、と考え死を選んでしまった女性。最後の瞬間においても、互いにわかり合えなかったというところが、何とも残酷。
 主人公の父は、立派だ。一人子供のためには鬼にもなると決めて、生き延びるために南へのつらい旅を続ける。けれど、立派な人であり続ける彼の存在は、立派すぎて自分の弱さをより自覚させられ、腹立たしい存在でもあっただろう。弱さを許さない、立派な彼。この物語では、父は迷いはあっても子供のために毅然として、最後の瞬間まで希望を失わない。だからこそ、彼女は、この世界よりもっと深く、わかり合えない事に絶望するより他なかったのではないだろうか。


 小松左京の「復活の日」では、聞く人がいないかもしれないのに、ラジオは音楽を流し続け、新聞を発行し、大学教授は死の瞬間まで講義を続ける。そして、それは「たとえ死んでしまうのでも、互いに声をかけあって死ぬ方がいい」からなのだ。「凍え死しかけている父親が、同じく凍え死にしようとしている子供を笑わせようと必死に頑張る」ように、人類は最後の瞬間まで互いに助け合って最後の時を迎える。そこにあるのは、ヒューマニズムというか浪花節


 けれど、寓話ではあるけれど、こちらでは核戦争後は、人が人を食いあうのだ。盗みあい、殺し合うのだ。


 ネビル・シュートの「渚にて」にしても、核戦争によって滅ぶしかない運命を、人々はどこか明るく静かに受け入れていた。実際に核戦争の危険性が高かった1970年代に比べずっとその危険性は小さくなったはずなのに、人々の行動は大きく変わっているのだ。それこそ、この40年間に人々の変わった部分だとしたら、哀しいことだ。


 
 この作品は、SFの形を借りてはいるけれど、SFとして読めば設定や世界作り込みが甘くて出来はよくない。極限の世界の寓話であって、SFではない。
 けれど、多分自分ならどうするのか、核戦争こそないけれど、未来は今より悪くなるしかないように思える現代に、それでもあなたは希望を見いだせるか、善い者であり続けられるのか、と問うているのだろう。
 
 それを考えてみること自体は、決して悪いことではない。


 

 そして、自分にも問いかけてみる。


 私なら、絶望するしかない世界にあって、善きものとして希望を持ち続けることは、難しい。けれど、誰かが私の事を信じてくれるのなら、少しだけ頑張れるかもしれない。
 
 そうやって、人々が互いを信じあっていけるなら・・・。



 

 それとも、それもまた寓話だろうか・・・・。