hyla’s blog

はてなふっかーつ!

茶道の未来を憂えてみる

 朝、起きたときから憂鬱だった。

 そのまま、シャワーを浴びて、綿絽の浴衣を着て、八寸の博多帯をして下駄を履いて出かけた。家を出たのは何と7時。行き先は、お茶の先生のところ。
 「暑い盛りやからこそ修行です。朝茶をします。」って言われた訳だ。

 香川は現在、最高気温35℃の日が続いている。普通の服を着ていても、つか裸でも暑いんじゃないかと思えるほどだ。その暑い最中に着物。しかも、朝茶・・・orz。


 朝茶というのは、お茶事だから「お炭(炭をつぐ)」に「点心(簡単な食事:茶懐石)」「お濃い茶」「お薄」というのがフルコース。たっぷり4時間はかかる。「朝茶」というからには朝早くやるもので、夏の暑い盛りにやるから、早朝の涼しい時間にやりましょうっていうお茶時だ。だから、本来は明け方から始まる。稽古なので、さすがにそこまではできないけど、それでも7時には始まっている訳だ。

でも、そういうお稽古をすることが嫌、というか、はっきり言って現在習っているあたし達はみんな「お茶したくない病」を発症している。もう、お茶の稽古に行きたくなくて行きたくなくて・・・。


 その原因というのが、先生の小言。

 もちろん習っているのだから、至らないところを指摘されるのはしょうがない。けれど、それはどうなんだ、と言いたくなることもまああるわけだ。

例えば、お稽古に使う「香合」がいつもの物ではなく、別のものが出ていたとする。箱に入ったままだ。普段のものを使うべきか、出してくれているものを使うべきか。

 で、先生に聞いて見たとする。と、こう言われる。
「使う為に出してあるんです。なんでそれがわならんのんな。」
 
 使うという判断をして、出しておけばどうなるか。
「今日のお手前は、棚もないし飾りはないんやけん、出すつもりはなかった。」


 って、感じにどっちに転んでも、何をやっても文句は来るのだ。先生は、「先生がどう考えているか、察して先に動け」、という。けれど、そんなもの判りませんがな。

 つか、いろいろ考えても、あらゆる可能性を考えて行動しても、文句は必ず言われる。つけようと思えば、文句などいくらでもつけられるのだ。そして、私たちは嫌になる。

 


 最近は少子化だし、これだけ不況できつきつな状況になれば、「お茶」なんかを習う人は減らざるを得ない。「嫁入り前の花嫁修業」や「専業主婦の教養」や「退職後の余暇」何かで習う人にしても、もはやお茶を習っていることが結婚の付加価値になる訳はないし、専業主婦は絶滅危惧種だし、退職後も働くのが当たり前。
 実際、私が習っているのは表千家だけど、それを習っているひとの入っている「同門会」の人数も減少の一途をたどっているらしい。「家元」の制度はもとより、茶道人口の減少は、それによって支えられている産業の衰退に直結する。茶筅や棚、釜や羽箒と言った細々した道具をつくる人がいて、茶道は成立している。更に茶道というものは、道具ではなく、席を運営する人に支えられている。人をもてなす段取りの全てを飲み込み、実行できる集団の存在することで、茶道は続いているといえる。それらが無くなることは、確かに極めて残念。

 

 けれど、うちの先生も70をとうに過ぎて、その先生の先生はもとより同輩の先生方も亡くなったり、高齢によって稽古を辞めてしまったりしている。新しい先生は増えていない。

 「次はあんたらが支えていかないかん」と、先生は言う。更に、「それやのに弟子の一人もとらない。それでは、教授者の免許もとれん。」とおっしゃる。


 でも、仕事と家の事をするだけでも、一杯だ。稽古を続けるのでも、きつい。その上でなお、道具を買い、稽古をする場を設け、弟子をとるって、できる訳がない。

 何より、そんな事をしたくない。お茶をやっていてよかった、楽しいと思えない。




 お茶が楽しければ、続けてみたいと思うかもしれない。


 暑い最中に、少し涼しい山にでも行って、お茶を点て、それを喜んでくれる人がいればこちらも嬉しいと思う。涼しい風の吹く浜辺の松の木の下ででも、ござを引いて冷たいお菓子とお茶と。


 けれど、そういう風流はいけない、と。お茶は修行ですと言われると、毎週小言の4時間を耐えるのは、嫌になる。

 そもそも、お茶とは、その一時を如何に楽しむか、そこが重要なのではなかったのか?



 帰ってきて、汗でぐっしょりになった着物を脱いで、シャワーを浴びてそういう事を考えながら気がつけば爆睡。




 このままじゃ、茶道に未来はないな・・・・。