hyla’s blog

はてなふっかーつ!

本を読む

 (長いです)
 
 明るい新年の初日に、今年こそちょっとは積ん読の山を減らすべし、と適当に取り出した本がこれ。
 

日本を滅ぼす教育論議 (講談社現代新書)

日本を滅ぼす教育論議 (講談社現代新書)

  

 なんちゅか、明るくない本である。しかしまあ、それなりに興味深い内容。東大理学部出の文部科学省の元課長が、これまでの経験を元に、日本人の論議の進め方の不毛性をついた本かな?

 

 理系っぽい明快な論議が並んでいて、読みやすい本。ただし、「教育論議」についての本であり、「教育論」についての本ではない。「教育問題」を題材にとって、日本人の論議の進め方の欠陥を指摘している本なので教育問題についての解決法とか問題点を指摘している本ではない。

 

 著者の主張は「極めて強い「同質性の信仰」の為に、議論が議論の形をなしていない為に、議論の進め方についての共通理解もできておらず、その為に何をしても不毛になる。従って、これからは「同質性信仰」を離れて異質な価値観を持つ者との間でルールに則った議論と共通理解の形成を測ってべき。」という感じだろうか。


 ただ気になったのは、この著者が問題にする「同質性の信仰」なんだけど、著者はこれを「日本という国の特異性」としてのみとらえているように読める。著者が国際公務員などの経験を元にして外国から見た日本を元にその特異性を示すという形をとっているので、そういう記述が多いのだけど、でもこれまでは問題が発生しなかったのに、現在なぜ問題が生じているのか、即ち「同質性の崩壊」は何によってもたらされたものか、といった事については記述がない。メインが「日本の今の議論の進め方の不毛さ」にあるのだから、まあしょうがないかもしれない。
 
  けれど、著者の提示するような建設的な議論を進める事は実際問題可能なんだろうか?というか、そうした議論の進め方におけるコストの問題は置き去りでいいのだろうか?


 例えば、「現状認識→問題点の把握→具体的な目標の設定→有効手段の開発・実施」と進められるマネジメントの過程から見て、「具体的な目標の欠如」を問題としてとりあげている。けれど、「具体的な(測れる)目標」とその「評価(測る事)」は恐ろしく手間暇かかる手段であることは無視している。
 
 著者にならって教育を例にとるならば、近年導入された「新しい評価感」により、まさしく著者の主張するような「具体的な数値目標」をかかげた年間計画を明文化し、生徒・児童の成績を「観点」別に評価し、それを次のステップに結びつけることが求められるようになった。これってまさしく著者の主張にのっとったものだ。つか、これが行われていた当時、著者は文部科学省の人間だったわけで、著者の仕事の一部と考えてもいいのだろうか?

 しかし、これって教育現場に恐ろしく手間暇かかる仕事を発生させ、多くの問題を産んでいる。
 

 観点別学習状況 - Wikipedia

 wikiに詳しいのだけど、これをやることに果たしてどれだけの意義があるのかははなはだ疑問。おまけに、そうして神経を使って膨大な手間暇かけて評価した結果と、従来の個々の教員の判断によって行われていたやり方で結果が異なるか、と言えば対して変わらないらしい。ってことは、従来の評価のやり方も、町工場の熟練工は「手で触るだけでミクロン単位でも判る」みたいな感じで、それなりに正確だったってことか? んじゃ、従前のやり方の方がコストがかかんないよなあ。

 
 つまりは、著者が主張する「具体的な目標」とその「評価」って、実際に実施された事によって仕事を増やして教育現場を更に疲弊させているのである。ついでにそれは、著者の言う「文書には表れない」が重要な要素を直接・間接的に低下させている。
 
 

 この重要性について著者はこんな風に述べている。
 

 政策化・ルール化・文書化されているもの以外の漠然とした要素は「ヒヅュン・カリキュラム」(隠れたカリキュラム)とか「スクール・イーソス」(学校内で自然に共有されている気風・意識等)などと総称されてきた。改革と称して新しいことをすると、重要ではあるが漠然としているそのような要素を破壊してしまい、その結果かえって悪い方向へ向かってしまうことがあるが、これは前述の予期せぬ生態系破壊と同じ現象である。

  
で、この例として「日本の学校教育の特徴」であった「掃除当番」「班「特別活動」などによって行われる「態度育成」の力を上げている。


 で、これってまさしく近年急速に軽視されてきている、あるいは膨大な事務の増加によって力点を置けなくなってしまっているものなんだけど。「総合的な学習の時間」の導入の目的は「自ら考える力」の育成にあったらしいけど、「運動会・体育祭」「文化祭」に代表される「学校行事」なんて、どういう風に運営するか、どのように人を動かし、どのようにもり立てるか、など「自ら考える力」を養う絶好の機会であったはずだけど、そういうのより「学習時間の確保」が重要だから、行事を減らすって流れもあるんだな。
 実際自分が高校だった頃、文化祭はたいてい10月の終わりだった。けれど、現在では近辺の多くの学校が授業時間の確保の為に文化祭を9月頭の日中気温が30℃を軽く越す猛暑の残る頃にやっている。何かねえ・・・。「文化祭なんてどうでも良いっし」、みたいな・・・?

 「あ〜たのおっしゃる「新しい評価」を導入されましたけど、何か良くなったか?というと反って悪くなってるんですけど・・・・。」って感じだろうか。
 まあ、そんな反論をすれば「それは「目的」が悪いのではなく、「手段」の問題なのだ」とか言いそうだけど、じゃあ実際に現実的で理想的な「評価」の「手段」を提示してみてよ、と言いたい。


 もちろん「具体的な数値目標」と「評価」の導入の全てが悪とは言わない。しかし、弊害も大きい事は事実だ。つまりは、メリットとデメリットで、トータルとしてどっちが大きいのかという観点がない事が問題だと思う。まあ、文部科学省から新しい施策が降りてくる時には、あっちこっちの学校でそれを試してみるらしいけど、その報告にはそもそも「新しい事をやることのデメリットは記載されない事が決まってるからなあ〜。そもそも現場の人間のデメリットについての意見・反論を吸い上げるシステムの必要性は感じないのかな?


 で、同じ事が著者の問題視する「同質性の信仰」の問題にも言える。

 「具体的な(測れる)目標」に基づいて「評価」することが恐ろしく膨大な労力を必要とすると言うことは、逆に言えば「同質性」に基づいて「曖昧な(測れない)スローガンみたいな目標」のもとで「以心伝心」によってあるいは「信頼」による関係が成り立っている時って、そこにかかるコストは最低限ですんでいると思われる。だからこそ、そうしたやり方が日本においては成立してきたのだろう。著者は問題点は挙げるけど、実際に自分の提言するような議論の進め方が現実に成立すると思っているのだろうか。実際にはそれってコストがかかりすぎて、反って無駄が多いように思う。

 無論、現在多くの問題が噴出しているということ、「同質性」の崩壊は、日本だけにとどまる問題ではないだろう。つか、これっていわゆる「大きな物語の崩壊」とか「ポストモダニズム」って奴の事ではないか?だから、日本だけの特殊性に問題を帰するのはちょっとどうかと思う。

 で、そうすると「同質性の確保」はもはや不可能なんだろうけど、全てにおいてきっちりとした議論ってのもコストが合わないと思う。私個人としては、コストパフォーマンスの良い「いわずもがな」な合意形成の仕組みも、デメリットはふまえた上で、それはそれとして利用する方が効率的と思う。なら、どの辺までを「まあまあ」とするのか。どこは「絶対きっちりしないといけない」とするのか。その辺の案配が一番重要なんではないだろか。  

 また、議論の進め方によっては「おめーが言うな」みたいな点も多々ある。

 例えば著者は「教壇にたったことのない人間によって教育学部の受業が行われていることは問題」って言うけど、じゃあ教壇にたったことのない文部科学省が教育改革を進めることの是非はどうなんだ?とかね。

 ついでに指摘しておくと、教員養成と医学部を対比させて「医学部ではきちんとした技術が身につくように教育が行われているが、教育学部では教師に必要な心の教育が重視されているが重要なのは心ではなく技能である。」ってな感じの事を述べている。けどなあ、教えるという事は「技能」というよりむしろ「芸」に近いものあるのではないか。

 吉本の専門学校に行っても、お笑い芸人に必ずなれるわけではない。専門学校を終えた時点で、舞台で通用する「芸」を身につけている芸人がどれだけいるのだろう。そうではなく、地道な実践の中で自分の「芸」を身につけていくしかないのではないだろうか。
 
 教員養成も、とりあえず大学では教員としての理想論をたたき込んでおいて、実際に現場でそれをどのように行っていくかはそれぞれに考えさせる、という形で行われてきたように思える。それぞれが現場で切磋琢磨し、協力し合いながら自分の「芸」を見いだし、磨きをかける事で一人前の教師になっていくという形。それは、ぱっと見の効率は悪くても、そうしたアナログ的なやり方が結局は最も柔軟で合理的だったからなのではないだろうか。
 
 「教員の質」を問題にするとき、教育現場、あるいは社会自体がもはや新任教員の成長を待つゆとりを無くしてしまったという点を無視するべきではないだろう。また、そういう視点も含めて、では今後どういうやり方をすべきかと言うことを検討するべきだろう。
それなしに、単純に「ダメなら首」的お試し雇用や、ダメ教員の排除を目的にした「免許更新制」をやることは、それこそ「スクールイーソス」を完膚無きまでに崩壊させるぞ〜。
 
 

 読みやすいし、なるほどと頷けるところもある。ただし、著者は教育についての問題をまさしく考える当事者であった人間。にもかかわらず問題山積のまま中途でほっぽり出してしまった人間とも言える訳で、他人事のような言い方をするなよ〜って感もある。
 更にそういう類の批判をうまくかわせるように、「この本では「教育論議の進め方」を述べるのであって、個別の教育問題の是非を述べるものではない。」って前置きするあたりの卒のなさが、そこはかとない嫌らしさ感にもなっています。


 まあ、つっこみどころを考えながら読んで行くには面白いかも・・・。