hyla’s blog

はてなふっかーつ!

本を読む

 
 (長文になっちゃってます)

 これを読んだ。





 「教師力」とかの「教育」という言葉の入るタイトルの本は結構山ほどあって、おいおいといいたくなるようなものもあるが、この本は比較的教育現場の実情についてはリアルにとらえていると思う。しかし、根本的にこの本の作者は、この本で何を言いたかったのだろう。

 内容は、教師の教育力(人間力)は落ちてきている。しかし、一方で教育現場の過酷な現状はひどい。そして、現在の教育改革に於ける方針はそうした現状を改革するどころか、一層悪くするものだろう。ってなところ。そして、タイトルは「教師格差」。格差ねえ・・・・。


 最近えらいはやりだけど「格差」という言葉には、良いものと悪いものの差という意味だろうし、そうすると現在も良い教師と悪い教師がいて、その格差が広がるのはなぜか、といった内容が予想される。しかし、この本のどこにもそういうものはない。その点このタイトルは失敗だろう。そして、教師の置かれた現状については語るが、教師力なるものが低下したその理由について分析がない。
 昔はよかったというのなら、それはではなぜ悪くなったのか、という話になるだろうし、今悪くなりつつあるというのでも、その原因について分析が正確に成されなくては対応の立つはずもない。著者は教師の教育力が落ちたのは教師自身の責任とするのか、それとも社会的な変化とするのか。そして、どういった解決策を提示するのか。そういうところがよくわからない。


 そもそも、悪くなったという「教育力」なるものは測れるものなんだろうか。それは、進学率なのか、いわゆる一流というところへの進学率か、はたまた教室の落ち着き具合か、あるいは学習に意欲を持たない生徒に如何に意欲を持たせたかなのか・・・。またそうした力を測るにしても、教師が対応している生徒の方も一律ではない。名門進学校では非常に優れた教師でも、いわゆる底辺校ではだめな人もいるだろうし、その逆もまたしかりである。
 あらゆる場面で強いリーダーシップを発揮しつつ、生徒に学習への興味を喚起させられるようなという教師を望むならそれもいいけど、それってものすごいスーパー教師だよねえ。自分の学校の教師がそういう教師でないのはおかしい。だから教師は・・・、というのは、例えばテレビに出てくる「神の手を持つ医者」みたいな医師を全国一律「うちの町の診療所」まで津々浦々求めるようなもんではないのだろうか。

「名医」紹介番組を見る度に思うのが、「名医」の活躍を紹介するのはそれは非常に結構だけれど、一方で、これでまた「医療の要求水準」が高くなるんだろうなあという事である。もっといいものが有ると思えばこそ、人は自分がそれに浴していないことが不満になる。同様に、もっと優れていてもしかるべきと思うからこそ、今自分の子供を教える教師に不満が募る。

 

 しかし、これまで、あるいは現在も教師として活動している人は皆馬鹿だろうか?学校教育は既に崩壊してしまったのだろうか。
 
 

 教師はパーフェクトではないから、個々人として良いところも悪いところもあると思う。また一部のトンデモ教師も存在も事実だろう。しかし全体として協力し合うことで上手くカバーし合いながら運営されてきたのがこれまでの日本の学校教育ではなかったのだろうか。確かに一部にはほとんどパーフェクトな人もいるけれど、それはごく一部だろう。実際には部活命みたいな人もおり、クラス運営命みたいな人もおり、あるいは事務系仕事ならパーフェクトもおり、生徒指導の鬼がおり・・・。しかしトータルでみれば、どこの学校でもそれなりに機能していたのが日本の学校教育ではなかったのだろうか。 

 

 有能な人にはそれなりの給与をという事で、現在能力給が教育現場にも導入されてきているが、有る程度食べていくのには困らない程度の給与が確保されていると同時に差はないからこそ、お互い様で協力しあっていたのではないだろうか。多分どういう所でもそうだろうけど、非常に突出して目立つ人がいる一方で、目立たなくてもしっかりした仕事をする人もいる。実際に教えるという仕事に限っても、どこにも書かれてはいないけれど、ないと困る知識というのがあるはずだし、それを自分だけで手探りで獲得していくのは恐ろしく非効率的だろう。そうしたものを同僚から教わり、また自分もそれらを開放するという事で協力しあい、「良い加減」を保って機能していたのではないだろうか。

 しかしここで、測ることが極めて困難な教師の能力と言うものを基準に「給与」に差をつけるということは、そうした関係を粉砕することになるだろう。「協力は損」という認識が広がることが何をもたらすのか、私は考えたくない。

 
 「溶けゆく日本人」とか「劣化する日本人」とか、これまでの日本人の常識であったものが変化しているのは恐らく事実だろう。そして、それに伴って、人と接する全ての職場がそうであるように教育現場も過酷になりつつある。この本で作者は、教師の教育力というより人間力が低下しているのが問題というけれど、それは日本全体の問題であり、教師だけの問題でもない。そして、その中で何をどうすればよいのか、結局のところこの本では何も提案していない。

 

 個々人の力が落ちつつ、困難な問題が増えて行くときどうすればよいのか?

 

 「能力給」の導入の根本的な目的は、人件費総額の減少にあるのだし、それは「協力によって支えられてきた「学校教育」の崩壊をあと押しするだろう。「ゆとり教育」で減少した授業時間を、あの手この手で確保して、ぎりぎりのところにきている所への「土曜日の授業復活」等の授業時間数増加は、細い一本の糸でつながっている何かを切ってしまうかもしれない。「道徳の授業科」「免許更新制」「ボランティアの義務化」「大学9月入学」「職業教育の充実」等々、全て教育現場から上がった声を拾ったものでは決してない。これらを実際の現場で望んでいるものは多分ほとんど誰もいない。それは教師が怠け者だからだろうか?

 

 というより、もし現場の人間が必要だと思うなら、それは言われなくても実践されてきたのではないか。政治や制度の問題ではなく、読書は大事と思えば国語教師は読書をさせるような工夫を凝らし、予算がなくても理科教師はゴミ捨て場でゴミを拾ってきてはそれを使って実験を工夫してきたのではないか。言われなくても自分が必要と思えば、個人や学校単位の努力で対応できる事は既にしてきたと思う。しかし、あらゆる場面で馬鹿にされののしられ、その一方で多様化する子供と保護者に応対し、孤立無援でもう限界にきているのも事実だろう。

 

 ではどうするのか?どうすれば、改善につながるのか。

 

 現在崩壊が進む現場として多くの人に認知されてきている医師という職業典型的にみられるように、高い倫理観に支えられてきた職業の意識の崩壊が激しい。それを洗脳が解けると言ってもかまわないが、いずれにせよそれは最終的に私たちの生活に恐ろしい結果をまたらすだろう。だからといって、崩壊してしまった意識はもう戻らない。
 しかし、この本にもあるように、どっちかというと教師になろうなんて人間は馬鹿だから、こんな時代でもまだ儲ける事よりも勤務時間外の持ち帰り仕事よりも「授業が面白い」とか「あのとき叱ってくれたけんよかった」とか言われる事を何より嬉しく思っている。恐ろしく時代遅れなそうした感性を無くさせない事が重要なのではないか。そして、比較的現在でも教師なんぞになろうという人は、古くさいそうした洗脳が効きやすい人間が多いと思う。

 
 しかし、「教師は常識なし」とか「教師は儲けすぎ」「教師は馬鹿」とかのマスコミや政治によって方向付けされた「教師バッシング」は「子供がおるけん」といった素朴な昔ながらの教師の感性の崩壊をよりいっそう加速するだろう。マスコミの報道などをみれば子供を預ける親としては不安な事や不満な事もあるかもしれない。しかし、それでもまず「信頼」するところからしかしか良い関係は生まれないのではないか。それは恐らくまた、人と人が接する全ての職場に言えることなのかもしれない。

 

 知らない人をまず「信頼」することから始めることは、現代ではとてつもなく危険だし恐ろしことだ。不信感を持って人を疑い場合によっては人をだまして自分が得をすることの方が、「信頼」を元にした社会においては、その人に大きな利益をもたらすだろう。ゲーム理論で、ハト派の中にまぐれ込んだタカ派がより大きな利益を得るように。しかし、タカ派ばかりになってしまえば、トータルでみれば利益が低下するように、「不信」を学び、「相互不信」に基づいて築かれた社会は、トータルで見れば社会全体としては利益が減少するのではないか。たしか社会全体で最大の利益を生みだすような行動規範は、全てがハト派になることではなかったっけ。

 

 しかし、そうした集団にタカ派が入ってきた場合はハト派であり続ける事は、不利益を被ることを意味する。そうすると進化的に安定な状況に行き着くのだろうけど、そうした理論がどのような結論を導くにしても、一時的には不利益が生じても、「信頼」することの方が人類全体には大きな利益をもたらす事を信じて、日本は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と、宣言したのではなかったのだろうか。
 
 

 「信頼」から始めることは、難しい。実際マスコミ報道や新聞やネット情報を100%「信頼」することは、これはかえって弊害が大きいと思う。報道されない部分を想像すること、自分の頭で考えることは重要だ。
 しかし、生身の人と人が接する場においては、自分の目前に存在するその人をまず信頼することから全ては始まるのではないか。そこにしか、解決の糸口はないのではないか。教育を、サービスを、医療を、企業を、良くするのも悪くするのも、私たち個人個人次第なのではないか。
 
 



 と、つらつらと本を読みながらちょっくらシリアスに考えてしまった。

 



 でも、これってグローバル化とかの問題を考えない理想論だろうな・・・・・。