hyla’s blog

はてなふっかーつ!

語らせていただきます!


 (長文注意)

さてさて緑あふれる季節のそれも4連休にあたしはいったい何をしているか、というとひたすら本を読んでいる。だって、本が呼ぶんだもん!面倒だから1冊だけリンクしておくけど、このシリーズが!


 

騎士(シヴァルリ)の息子 上 <ファーシーアの一族> (創元推理文庫)

騎士(シヴァルリ)の息子 上 <ファーシーアの一族> (創元推理文庫)


 
 ちょっとだけ、と開くとあ〜ら不思議あっという間に1時間。退屈な会議に持って行きたいくらい。(いやそれはダメだけど)


 というくらい、このファーシーアの一族はおもしろかった。連休でもないと読めない。読んだらダメ。普通の日になんか、こんなもの読んだら仕事になりません。
 で、ひたすら読んで、繰り返し読んで、休み休みだけど、既に24時間は楽に読んでいるだろう。そして、そういう状態だから普通に仕事とかをしていても、ともすれば思考は本の世界に戻っていくのだ。

 

 なんて凄烈で残酷で甘美な物語だろう。そして、今の私の生きているこの現実の世界よりも確かにそこにあって、忘れがたく哀しくて、けれどどうしようもなく誘われていく物語だ。
 

 
 こうした魅力の一つには、描写のうまさがあると思う。人の動きや背景を読む人にありありと創造させる描写や、さっと読めば気がつかないようなわずかな言葉で、しかし何よりも確かに主人公とそれを取り巻く人々の思いを語っていく点。

 
 「誰もいない広間で父親の肖像画をながめた」という言葉で、庶子(フィッツ)として捨てられるようにして育ったフィッツの、一度たりとも語られることのない激しい父への思慕を知る。

 
 また、街に出かけた主人公を見かけた市場の山の女が「ケッペト」と狂ったように叫びながら主人公を追いかけた場面で、わずか1ページしかないそれだけの描写から、子を思いながら手放さざるを得なかった母親の慟哭と、それに気づくことなくフィッツが立ち去るという悲しさと、そして、恐らくはそうした形の出会いでしか親子を対面させられないシェイドやシヴァルリや国王の抱える困難の過酷さを思う。

 

 何一つ見逃さない主人公の目線で淡淡と語られる物語に私たちは飲み込まれ、いつの間にか本に書かれた言葉を読んでいるということ、今ある自分の現実が希薄になり、フィッツの目線を通してその世界を味わうことになるのだ。


 こうした感覚をもたらすのは、元々の作者であるロビン・ホブのうまさもさることながら、訳者である鍛冶靖子の言葉運びのうまさもあるのだろう。どれほど上質の物語でも、日本人である私達にとっては、簡素でリズミカルで端正な日本語でなければここまでイマジネーションがかき立てられることはない。そういう点で、翻訳の成功も大きいと思う。(この続編も同じ訳者も訳して欲しいな。)
 


 そして、更にこの物語が忘れられない物語となり得た理由は、これが単なる勧善懲悪の物語に終わらない点にある。「永遠の魔法の力」とか、「失われた知恵」とか、そうした魔法によって全ての困難が一気に解決し、めでたしめでたしと終わればその一瞬のカタルシスは大きくなるだろうけど、しかし忘れられもする。何百回「水戸黄門」を見ても、私たちはその物語を自分の内にとどめてはおかない。一瞬後には忘れ去って「水戸黄門=勧善懲悪」ということだけしか残らない。
 けれど、何もかもを投げ出して全てを捨てて奉仕ししても、必ずしもそれは個人の幸福にはつながらないというラストは、私たちの現実にも似ている。単なるエゴで生きれば物事は悪くなるが、どれほど努力しても願い(個人の幸福)は必ずしても叶うわけではなく、最大限努力して得られるものに満足するよりほかないというまさしく私たちの現実。むなしくとも、しかし努力すること、その重要性を、私たちは物語を通して自覚する。だから、心に訴える物語になるし、何度も何度も繰り返し考えて行くことになる。

 
 そして、同時にこれは極めて甘美な物語である。主人公フィッツは、父親を一度も対面することなく(対面したのかもしれないが記憶になく)、母親の記憶もまたない。そこにいは、何らかの力が働いているのでは、という推測も成り立つが、いずれにせよ本人の認識としては捨て子である。
 
 しかし、主人公は「少ない」と語るが、その周りには主人公に深い愛情を持つ人々がいる。叔父であるヴェリティ王子や祖父であるシュルード王はフィッツを過酷に使いはするが深く愛情を持ち、折に触れそれを示し、最後までフィッツの事を思いやるし、それ以外にも(実は血縁の)シェイド、父親代わりとなるブリッチ、恋人のモリー、継母にあたるペイシェンスや道化。そして、絆を結んだオオカミや犬も。彼らは皆深い愛情を主人公に持ち、彼を信頼し、またフィッツはその期待に答えるべく努力し、そして成果を上げている。これが幸福でなくて、何だろう。
 


 例えば私たちには、どこまでも信頼してくれる人がそれぞれいるだろうか。絶対に見捨てない、どんな状況においても自分の事を気に掛け、苦難においては援助してくれる(それが実際に可能かどうかはおいといて)、そういう人がいるだろうか。自分に対する絶対的な愛情と信頼を持つ、それを信じることができる人が自分の周りに一人でもいれば、人はそれ故に強くもなれるし頑張れる。また、信頼するからこそ、相手を思いやれる。

 
 けれど、そんな存在を持つ人、あるいは一瞬でもそんな人の存在を信じられた人はそう多くはないのではないだろうか。「永遠の愛」の多くが成田で終わったりするし、真に深いとされる母親の愛情がエゴと化す事も少なくはない。現実はそういうものだからこそ、「誰かから愛され信頼され期待に応える自分」というのは永遠の夢にも似ている。

 

 そして、何もかもを捨てて奉仕した後に、少なくとも大国の平安という大きな物事はかなうのだ。自分が努力したことの結果は得られている。誰に知られることがなくても、自分がそれを知っているという事は幸福ではないのか。

 

 そういう意味で、真に悲哀に満ちた存在はリーガルだろう。父王の期待に答えることもできず、兄達と愛情を交わすこともできず、臣下の尊敬を得ることもできず、不平と不満と不信感でしか生きられず、それ故に成長することもできず幸福がどのようなものかを知ることもできない。周囲の期待に応えられない、何を求められているのかがわからない。相互不信感に基づく人間関係とは、まさしく現代社会そのものではないか。期待はずれの存在であることの悲しさ、そういう状況は、誰しもがよく知るものではないか。 そして、物語は残酷にもそういうリーガルを最後まで救わない。これもまた現実か。


 
 この物語は、「王子様に助けられ、あるいはお姫様の愛情を手に入れて、みんな幸せになりました。めでたしめでたし」という多くのファンタジーがとる類型は採らない。しかし、究極の幸福であると同時に、多くの人にとってはほとんど夢としか思えないような完璧な「人々から愛され信頼される自分」というものを指し示すからこそ、甘美でまさしくファンタジーなのである。

 
 

 そして、上質な多くの物語がそうであるように、私たちは2500ページにも及ぶ長い物語の中でフィッツと同化し、自分の中にも「無私無欲に全てのものに愛情を注ぐ」といった行動規範を瞬間的にせよ持つのだ。そうした事は決して悪いことではないし、それこそがファンタジーやメルヘン、物語や民話といったものの持つ力ではないかと思う。
長文読んでくれてありがとうございます)