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本を読む


 ちょっと出かけていて、ついでに本屋でこれを買った。

沈黙のフライバイ (ハヤカワ文庫JA)

沈黙のフライバイ (ハヤカワ文庫JA)


  この作者について、後書きでは、「ハードSFに萌えの要素を取り込んだ」と表現してあったけど、「萌え」の要素ってどっちかと言わなくても「理系人間」の要素である。で、そうした雰囲気を盛り込むことによって、妙にリアリティーがある。

 そして、読後感はなかなか良い。すごく前向きに、でも淡々と努力すること、夢を叶えることのすがすがしさといった風な感じがある。

 

 でこうした読後感は何からくるのか、と考えてみると、やはり共感のしやすさにあるだろう。この短編集に収められているのは、何年と言った年代を折り込んでいるものもそうでないものも、どれも極めつけの近未来である。そして、出てくる人間がまあどれもこれも、「いるいる」っと言いたく成るような、ごく普通にそこいらの大学の研究室にいそうな理系人間達。そして、そういう人間が、身近な(と思える描写がうまい)技術を利用して宇宙に乗り出していくわけで、これって何か昔のジュブナイルもののSFを読む時の感覚に似ている。
 
 小中の頃によく読んだ、黄色の背表紙の薄い文庫本。眉村卓小松左京、光荑龍といった作家の「あの列車を止めろ」や「見えないもの影」とか、そういうものを読むとき、確かにあたし達は主人公になりきって作品に入り込んでいた。
 
 
 で、もう少し大人になって読み出した作品では、こちらも知恵がついているし作品の舞台も近未来ではなくて、どう考えてもハリ・セルダンにはなれないとわかっている。そうなると、遙か彼方の未来のイメージを如何に正確に読み手にイメージさせられるか、とか主人公の成長とか、銀河に乗り出す事の困難さとか、そういうものがメインになって、更には訳わからん宇宙人の考えることは共感もしようもないのが当たり前ということで、読み手に響かない作品になってしまったのが80年代?おまけにSFも細分化してしまって、設定がSF的でも恐いとホラーとか、設定がSF的でも惑星で王制が発達してその惑星独自の生き物が飛び交えばファンタジーで、絵で表現すれば漫画とかになってしまって、SFは拡大しながら空洞化してった感がある。

 


 でもこの作品に出てくる人間は、本当に等身大(と思える)だから、ジュブナイルを読んでた頃のように、登場人物になりきれる。そして、今や少々の仕掛けでは「この設定は・・・」なんてことを言ってしまう大人でもついつい共感し夢想できてしまう科学技術が魅力的だ。そしてそれらは、きっと今よりは何か新しいものをもたらしてくれて、そしてそれは頑張ればきっと20年後くらいには実現する未来ではないのか、と思わせるのだ。

 
 近未来の、あるいは現代の科学技術の発達によってもたらされる未来像を描く作品にはハードSFというより、バイオ系のSFが多い。けれどクローンだったり遺伝子組み換えで作られた生き物達は、どちらかというとそれこそ「アルジャーノン」に典型的に見られるように、悲劇に向かっていく。

けれど、この作品では無謀な計画が崩壊していくのではなく、あくまで現実感のアルレベルで計画は成功したり失敗したりする。それで、私たちは失敗することもあるだろうけど、本当にそれができる、みたいな気になる。


 私たちは知っている。


 地底には大きな空間などないし、ペルシダーも存在しない。それから、どこまで飛んでいっても恐竜が今も生きている「ロストワールド」は存在しないし、火星にはタコ型宇宙人も、武部本一郎の描くような美女もいない。
 

 そんなことは、とってもよく判っている。
 
 
 
 けれど、いつだったか、大手建築会社の描いたどこまでも伸びる超超高層ビルの絵があった。成層圏にまで達する軌道エレベーターはSFではありふれた設定だけど、あくまでSFのはずだった。けれど、その絵を見たとき、超超高層マンションができる日がもしくるなら、軌道エレベーターもできるかも、と思ったことを覚えている。

 
 ほんとに長生きしたら、いつか海の上から空へ向かってどこまでも伸びていく軌道エレベーターは見られるかしら。成層圏の家で、夕焼けを見られるかしら。荒涼たる地獄のような月に行けるかしら。ほんとに火星の空はピンクなのかしら。
 そして、日本の空にトキやコウノトリが飛んで、私が死んでしまったずっとずっと先の本当にいつか、やっぱり地球は濃密な生き物の気配に満ちあふれた惑星で、その緑の丘の上でまだ人間がいるのだったらいいだろうなあ・・・。

 
 そして、それは全て今生きる人次第だよん、って感じさせるところがよろしいかと・・・。