hyla’s blog

はてなふっかーつ!

中内功が亡くなる


 昨日ニュースをつけると、ダイエーの操業の頃の様子が放映されていた。それで、中内功が亡くなったんだな、と気づいた。先日新聞の隅に、脳梗塞で入院との記事が小さく出ていたけれど、元気にはなれなかったようだ。

 
 2000年代になってからの中内功は、「カリスマ」が出版された頃のような勢いは無くなってしまっていたし、ここ最近は特に経営失敗の責任をとって私財も処分してしまっていた。彼は松下幸之助のように、成功者としてその生涯を終わることができなかったけれど、それでも経済も何も知らない私であっても、どこか惹きつけられるものがある。それはいったい何なんだろう、と考える。


 あふれるほどに物がある、平和で豊かな社会を夢見て、ひたすら邁進し続けた彼の生き方は、大衆が求めるものといつしか異なってしまったけれど、それでも彼の基本にあったのが「大衆の幸せ」を追い求めた、と私たちに思わせてくれるからだろうか。(それが本当かどうかは判らないけれど。)
 自分がもうけることが第一義ではなく、「人々に安くいろんな商品を提供すること=人々の幸せ」が一番であった、と。無論したたかな商人としての才覚がなければあそこまでやっていけるはずもなく、「もうける」ということは、無論基本だろう。けれど、それでも西部グループの堤社長に対するものとは異なる、親近感を人々に感じさせる。浪花節なところ、そこが彼のカリスマなのだろうか。
 


 そして更に、ダイエーだけでなくイオンやイトーヨーカドーなどの流通業界はこれからどうなるんだろう、と思う。
 80年代のダイエーは、確かに勢いがあった。次々に生まれるPB商品は、今のMUJIにも通じるオシャレ感があったし、その割りには安くて、でも庶民的で。けれど今、毎日の生活必需品以外に、スーパーでわざわざ物を買おうとするだろうか。ダイエーのみならず、どこのスーパーでも、いやデパートの売り場でさえも。そこにはあふれる商品がある。けれど、私たちは本当にそれを欲しているだろうか。商品を眺めながら、ふと考え込んでしまう。
 

 売り場に並ぶ驚くほど安くて多種多様な商品は、品質だって悪くはない。けれど、果たして全て売れるか、というと決して売れてしまうことはないだろう。だって、それほどまでに、たくさんのものがある。とすれば、そこに並ぶ商品のうち、一定の部分はもう既にゴミなのだ。バーゲンをしたって、全て売れてしまうことなど無い。だから、きっとそれは使われず、そのままゴミになる。
 お金とエネルギーをつぎ込んで、ゴミを作り出している日本という国。どうして、この国には人々が求めるより遙かにたくさんの物があるのだろう。それらはゴミにしかならないのに。他ならぬ私たち自身が、未だに使い切れる以上のものを求め続けているから、なのだろうか?


 
 80年代からこっち、時代とともに良くなった、と感じるものは本当に少ない。それ故に、明るい未来というものを信じることも難しい。恐れずに一生懸命努力すれば必ず物事は良くなる、という事を体現した人々がいた時代が昭和だった。次々にそうした人が去って、小泉首相郵政民営化を叫んで大勝し、民主党もこけちゃって、社民党はすっかり陰が薄くなった。 


 どう考えても今より良くなるとは思えない現状なんだけど、だから人々はより一層、中内功ダイエーが輝いていた昭和という時代を懐かしむのだろうか。



 うーん、ちょっとばかし感傷的ですな。