hyla’s blog

はてなふっかーつ!

雨読する午後

 お茶から帰って少しぼおっとして、休みだから山へ行こうと思ったら雨が降っていた。ならばと、図書館から借りていた本を読み始めた。思いつきで、ベランダに出て本を読んでみる。雨のしずくの落ちる音がして、湿った柔らかな空気があって、曇り空だけどそれでも蛍光灯の部屋よりずっと明るい外の明かりで、久々に集中して一気に読破していった。

 まずは、これ。 

呪いの時代

呪いの時代


 この著者の本は、どれも読みやすいけど、この本はその時々に書いたものをまとめているので、全体を通したテーマがあんまりなく、著者の意見をまとめるのは難しい。表題となっている「呪いの時代」と続く「「祝福」の言葉について」で私が読み取ったことをさっくりまとめるとこんな感じか?

 「ネット世論を始めとした今の世の中では情理を尽くして語るのではなく、相手を攻撃し破壊する言動がまかり通っている。言葉は、記号として機能し、身体が伴わない故にどこまでも肥大化し暴走し、現実的な力を帯びて「呪い」ととして機能し、全てのものを破壊する。そしてそれは破壊していくだけで、創造には繋がらない。そのような世の中を生き抜くには、生身の愚かでぱっとない自分を愛おしみ愛することが重要。また、祝福の言葉は承認の言葉であり、敬意と共に語られる言葉であり、それはまたひたすらにあるものをあるがままに写生する言葉である。そして写生してもし尽くせないから、汲み尽くせない生をしることができる。」


 ネットに代表される今時世論は、確かに皆攻撃的。ネット空間だからそうなっている事もあるだろうけど、それは現実の人の言動にもつながっていて、メンタル的に弱っている時には、救いの無い気分になってしまうことはあるだろう。そういう点で、生身の自分を愛おしめというのは、それはそれで良い指摘だったりするかなと思う。
 
 ついでに、生身の自分を愛おしむだけでなく、同様に生身の人間としての家族や友達、ご近所さんや同僚といった存在も愛おしめれば呪いをはじき返す効果はあるように思う。と思ったら、その辺もぬかりなく7章の「日本辺境論を超えて」の中で「「交換経済」から「贈与経済」へ」の中で指摘していた。さすがだな。

 

 この著者の文章はとにかく読みやすいのは、難解な概念でも、なぜそのような考え方が成立するにいたったか、なぜその方がメリットがあると考えられるか、といった形でなされることと、例えや比喩を的確に使っていることで、すんなり読めるのだと思う。
 
 ただ、10章の「荒ぶる神をしずめる」については、まだ言いたいことが著者自身完全には咀嚼し切れてないような感じがした。
 

 それと、11章の「戦争世代と科学について」は、ちょっと違うなあと感じる。「科学性の定義とな何か」と言われたら、それはもうやはり「再現可能性」につきるのではないか。別にロビンソンクルーソーでなくても、地球最後の1人になっても、科学的真理を追究することはできると思う。地道な実験を繰り返し、それが正確に再現できるものであるなら、それは科学的真理と言えるはずだ。様々な人がそれを追試し、批判しあう過程は誤りを見つけ出す為にとても重要な過程だけど、それなしなら科学ではないとまで言い切るのは、ちょっと言い過ぎ。でもまあそれは、自然科学に基本的軸足をおくか、社会科学におくかの違いなんだろう。


 と言うことで、あんまりまとまらないけど、とりあえず読破。


 

 で、続いて読んだのはこっち。
 

下山の思想 (幻冬舎新書)

下山の思想 (幻冬舎新書)


 で、これに関しては、新聞なんかで派手に宣伝してたこともあって借りてみたけど、もうさっぱりだった。何が言いたいんだろう?「世界の経済大国という頂上を目指すのではなく、実り多い成熟した下山を目指すべきだ」と書いているけど、その「成熟した下山」とは如何なるものを指すのか、少なくとも私には読み取れなかった。
 本自体、様々な時期に書かれた様々な文体の文章で、ほとんど同じ表現の同じ内容が出てきたりしてとても読みにくい。本として出すなら、その辺はもう少しちゃんと編集して欲しい。あるいは、これって日記?ここは単なる昔話ではないのか?としか思えない部分もある。
 
 つまりは、この本はエッセイ集なんだな。タイトルから、一つのテーマについて論じた本と考えて読むからいけないのだ。エッセイの内容や文章となれば、それはもう個人の好みの問題だ。ので、この本については、本のタイトルと紹介文が不適切と思う。もしくは、それに騙された私がアホなのかな〜?



 で、口直しに軽く、これを読んで終了。
 

昔は、よかった?

昔は、よかった?


 

 でもこれって、充実した午後だったのか…?