hyla’s blog

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学校・職業・選抜の社会学


これを読んだ。先日図書館から借りてきた本のうちの一冊。

 


 苅谷氏の博士論文を元に書かれた本で、的確な文章と構成で読みやすいが、なかなか読み応え十分。最後の考察を読み終えた時には、見事だな〜、と感心した。日本の高校教育の、それも就職指導という非常に特異な現象について、データを統計的に分析してそこから、学校が教育的指導や配慮に基づいて職業斡旋をするが故に、市場メカニズムに依存したジョブマッチングにくらべてもむしろ合理的に職業の配分を行い、心理的な挫折感を持たせずにメリトクラティックの価値観を持たせ続けていること。それは、向上心をもつ勤勉な労働者を育成することに繋がり、それこそが日本の強みであると述べている。

 本の最後はこんな文章で締めくくられている。  

学校にゆだねられた職業選抜は、優れた大衆労働力の形成と配分の両面にわたる社会装置である。ひとたび競争に敗れた者達に対しても、メリトクラシーはその手を休めることなく、産業社会の活性化にすべてを巻き込む形で働き続ける。こうして完成した教育的なメリトクラシーの大衆化状況が産業社会・日本の成功を支えてきたのではないだろうか。ここに私たちは、産業社会のひとつの到達点をみることができるのである。

苅谷氏は、大衆教育社会の中での学校というのもの隠された機能を他にも指摘している。
 別の本では、「一定数は生じてしまう若年者の「犯罪」を、大衆教育社会の中で「生徒の非行」とすることで、教育的な配慮に基づいて指導することで犯罪者の増加を抑止する装置となっている」と書いていた。進路指導(就職指導)もまた、近代社会の中で敗者のルサンチマンの問題を巧妙に回避し、質の高い労働者を提供するという装置という指摘になるほどと感じる。

 

 しかし、この論文はちょうど「ジャパン・アズ・ナンバーワン」なんてのが書かれたバブルの頃の分析である。あの頃に比べて、今の産業社会はその様相が一変してしまっている。真面目で勤勉で向上心のある分厚い中間層は、すかすかになってしまって、派遣に代表されるような非正規労働者が増え、正規労働者にしてもペイオフだけでなく過労死やウツが待ちかまえている。

 
 高校の就職指導の形態が変わった訳ではない。そこでは今でもメリトクラティックな成績を主にした選抜がなされ、それを通じてメリトクラティックな価値観の刷り込みがおこなれている。
 
 
 しかし、実際に高卒で就ける職業は、もはやブルーカラーかグレーカラーしか残されていない。ホワイトカラーの職業は進学が、それも四大卒の学歴が必要となっている。しかし、1970年代からずっと大学の学費は着実に上がり続け、平均賃金の上昇がほとんどない状況においては、学費が払えないために進学できない層が着実に増え続けている。この状況においても、「やればできる。」「もっともっと努力すれば良いことがある」といったメラトクラティックな価値観を競争における敗者にも持たせ続けられるのだろうか。ローゼンバウムの言う「トーナメント選抜下での敗者の低い水準での均一化」を回避するにはどのような仕掛けが必要なのだろうか。

 
 労働者の能力を高く保って産業社会を維持するには、放っておいても自ら努力して自己の価値を高めてくれるようすることが必要だ。

 
 って、それが指導要領の「自ら学び考える力の育成」というお題目なんだろうか。指導要領は産業社会の要請に応じた労働者の育成を目指しているのだろうか。ひょっとして、それまで昇進や給与アップという形で報酬を示すことで、労働者の質を維持し続けていたのが、経済状況の変化によってそうした報酬を示せなくなった事の帰結が指導要領の変化?
 けれど、直接的な報酬なくそうした価値観をすり込むためには、やはり報酬と同じだけのコストがかかるはずだ。十分な教育には人手がかかるのが当たり前。ここだけは、お金をかけることをけちってはいけないと思う。教育は、未来への投資であり、社会の安定につながるものといえるのだから。

 
  って、結論になっちゃったけど、これ以上今の学校に無理難題押しつけても無理だろうなあ。

 
  というか、致命的に崩壊するぞ〜。