hyla’s blog

はてなふっかーつ!

階層化日本と教育危機


 図書館からこれを借りだしてきた。
 


 言わずとしれた、社会教育学の第一人者、苅谷武彦さんの超有名作。でも、読んだことはなかったのだな。昨日図書館に行ったらあったので、借りてみた。


 この本は、基本的には論文を集めたもので、専門書のくくりに入るんだろうけど、非常に読みやすく判りやすい。どのように説明すれば判りやすいか、十分に検討され、どうしても必要な専門用語を覗いては、誰にでもわかる平易な言葉で語っている。著者の実力の程がうかがえる力作。


 けれど、さくさく読みながら、途中で放り出したい気分に襲われた。だって、大規模な調査とその統計分析によって見えてくる現実、そして未来は暗澹たるものでしかない。日本では急激な階層変化後に、教育を通じた階層の固定化が進み、マニュアル層(労働者階級ということか)の子供達の中では、教育からの逃避さえ始まっている。インセンティブディバイド(意欲格差社会)が、教育の場を通じてより一層の格差を生んでいるのに、「ゆとり教育」や「総合的な学習の時間」によって、更により一層それが加速された。


 とそういう事が、これだけの人によって2000年の段階で既に指摘されていたのに、それは単なるオヤジの繰り言とかではなく、しっかりした統計分析による事実なのに(社会学がここまで統計を用いるとは思わなかったほどに)、それでも教育改革って実施されたんだよなあ・・・。


 そして、現在はというと、全くのトホホである。




 この本の中での著者の一番の評価はどころは、「学習時間(努力)」というものさえも、階層の影響下にあるという事をはっきりと指摘した点だろう。階層=教育環境によって、開発される能力の幅に差があることは誰しも認めることだけど、「努力」と言うことも、また同様だと言うことは、誰でも頑張ればその能力を発揮させることができる、という言説は嘘であったと言うことだ。

 ま、確かに身の回りを見ても、そうなんだな。「やれば出来る子」という言葉は耳障りはいいが、「やる」というのも一つの才能であるとっても差し支えない。「やればできる」と思っても、「やる」才能がなく、実際「やれない子」はたくさんいるのだ。


 そしてこの本は、高等教育としての高校を主な分析の場にしているが、現在の高校生の親は70年代〜80年代に育っている。そういう年代は最も階層による格差の影響が無く、「頑張れば」誰でもある程度自分の目標を実現できた時代だし、そういう年代には「ガンバリズム」が染みついているだろう。そして、親たちは「頑張れば」大学くらいいけるだろうし、「頑張れば」正規雇用は当たり前だと思っている。けれど、そういう彼らは自分たちが、時代の「頑張らなければいけない」という外部からの働きかけに助けられて頑張っていたことには自覚がない。今の高校生は、小学生の頃から競争を回避するような教育を受けてきたし、そういう子供達が親の常識ほどには勉強せず、結果として受験に敗れ、親の階層を維持することが出来なくなってしまったのが、いわゆる派遣の問題だったりするのだろうか。


 しかし、統計的な所には見えない身近なところに着目すると、もっと恐ろしいと思うことも多い。それは、最近の高校生は、本人は勉強時間として努力している、と思っているかもしれないが、その勉強が実際の意味での勉強に成っていない、勉強のやり方を判っていないという点である。
 さすがに、少しでも勉強させたいと思う親は、塾にやる事が多い。そういう塾のやり方を聞いてみると、自分のペースで進めて、判らなかったら質問するのだとか。そういう塾に頼ってきた彼らは、「判らなければ人に聞く」ことしかしない。「判らなければ考える」ではなく、いきなりヒトに聞くのだ。「自分で考える」と言うことをしなければ、学力の伸びるはずもなく、勉強時間の割にはちっとも伸びないことになり、嫌になって放り出すのだ。将来にも通じる、「自分で考える」という事をしない、と言うことは彼らの将来にも目を向けて考えると、これまた非常に恐ろしい。この分析以上に、現実にはもっと「勉強」がされなくなっているのだ。


 この本では、そういう教育による階層化の拡大・固定を避けるべく、いくつかの案が提示されている。そのうち、例えば小学校教育において、教員志望の大学生や退職者ボランティアとして、教師以外に補助的に教育に携わる人をつけるなんて方法は、実際に実行されてきている。けれど、本当はもっと大事な少人数制は必ずしも実現してはいない。更に、もし階層化の拡大を防ぎたいのなら、公立校の教育力の底上げが最も重要だろう。お金があっても、公立校にこそ行きたいと思わせるような公立校。けれど、(田舎はそうでもないのだけど)特に都会では優秀な教師は、どんどん私立校に引き抜かれていると聞く。教師も人間だから、より高い報酬を提示されれば、なによりある程度以上の児童生徒がいて、やりがいが感じられると思えば、そちらになびくのも当たり前だ。とすれば、これからも公立校の復権は難しい。経済危機で、予算の成立も危ぶまれる中で、給与カットと公務員叩きによってダブルでやる気を失って行くばかり。これでは、教える教師の側にさえ、やる気の格差が生じるではないか。



 さすがに「ゆとり教育」がダメダメと言うことで、揺り戻しがおきて、新しい教育課程がつくられているらしい。これまでがそうであったように、ありとあらゆる要求を盛り上げたようなものになるのではないのだろうか。
 本当に、教育水準を上げたいのなら、十分な時間を教育の場に与えるよりないだろう。どんな仕事もそうだろうけれど、特に創造的な仕事ほど、準備には時間が必要である。単に授業時間の確保ではなく、その準備をする十分な時間。互いに児童生徒の情報を交換し、授業のやり方について情報を交換し、切磋琢磨し協力し合う時間。それなくして、あれもこれもと押しつけられる仕事は、恐らく意図せざる負の効果しか生まないと思うのだけど・・・。


 

 著者は、昨年また「学力と階層 教育の綻びをどう修正するか」という本を出している。2000年以降の現状を踏まえ、そこではどのような提案がなされているのか、是非読んでみたいものだな。