hyla’s blog

はてなふっかーつ!

コラム


 珍しく新聞の記事から。


 私の職場でとっている新聞は、地方紙と全国紙が読売と朝日である。活字は好きだし、その日の新聞は必ず目を通したい口で、開いた時間をやりくりしてスポーツ欄以外は見ている。

 今日も何気なく一面を見ていて、下記のほうな読売新聞のコラム「編集手帳」の文章に考え込まされた。


 

(前略)東京・秋葉原で7人を殺害した通り魔の男は25歳、滝廉太郎樋口一葉の没年を超えている。彼女のいない焦り、職場への鬱憤(うっぷん)、敗北感、孤独感…。男が携帯サイトの掲示板につづった悩みがどれも、ごくありふれたものであることに拍子抜けした◆「誰かが見て、自分を止めてほしかった」。警察の取り調べに男は、掲示板に書き込んだときの気持ちをそう語ったという。甘ったれるんじゃない。


 前半には、「人は誰もが無理やりにでも我が身を慰めながら、人生の暗い道を走っている」とあるにはあるのだけど、それにしてもこれってどういう意図の文章だろう。

 
 今回の事件の犯人が精神的に未熟であることは間違いないだろうし、報道を信じるならば、虐待とまではいかなくてもそのままの自分であることを否定されて育ったようではある。とはいえ殺人、それもあのような形の殺人は間違いだし、彼自身に重い罪があることは間違いないだろう。被害者やその家族のつらさは言うまでも無いことだし、そう言う事件の報道を聞いて、多くの人が犯人の不平というものはあまりにも自分勝手だと感じるかもしれない。

 
 しかし、それでも大手の新聞社の一面コラムという、恐らくは社内でも優れた書き手と評価されているだろう人物の文章にしては、これは何なんだ?

 
 「甘ったれるんじゃない」と、自分の感想を書いて、それで社会のこの犯人についての評価を代弁しているのか?それとも、犯人に伝えたいのか?それとも、同じような犯罪に走る可能性のある人間に呼びかけているのか?自分ではとにかくつらく、孤独で追い詰められていると思っているかもしれないが、世間からみれば甘えているだけなんだ、と。そう伝えたいのか?

 書き手の真意はどこにあるのかは知らないが、疑いもなく勝ち組の匿名の読売新聞記者から、「お前は甘いだけだ!」と言われて、犯罪予備軍の人間は、立ち直り、犯罪が減少するのか ?

 
 
 そんなはずはあるまい。
つか、嫌味どころか、場合によってはこれって犯罪を煽ってないか?
 

 
 悲惨な殺人があり、それを繰り返したくないのなら、メディアなら、なぜそれが起きたのか、なぜそれを防げなかったのか、今何をするべきなのか。そこにまず視点が来なければならないのでは?

 
 「止めて欲しかった」と語る言葉を「甘えるな」と切り捨てる前に、彼を犯罪者にしない、バラバラな社会の中で孤独と絶望感から暴走する人間にブレーキをかける方法をなぜ考えないのだろう。人を犯罪者にしない、掲示板上に犯罪予告があった場合に110番するというものより、闇雲に危険な方向へ走ろうとする人の前に灯りを照らし、そもそも人が犯罪者にならなくてもすむようにする方法。
 個々の人間に比べ、桁違いの情報収集力と発言力を持つメディアだからこそ、たとえ事件後間がなくて情報が十分でなくても、読み手はどう感じるかという配慮や、マスメディアとしての責任を十分に考えて発言するべきではないのだろうか。 

 
 小泉政権あたりから顕著に何事も自己責任という風潮になったけど、貧困も自己責任というのは勝手だけど、そうやって犯罪者を増やして、厳罰化してって不毛だとは思わないのだろうか?

 
 犯罪を犯す人間の未熟さに全ての原因を求めるなら、これからも犯罪は増え続けるだろう。様々な人間がいる社会で、上手く人と関われない人間は今も昔も必ず出る。だからこそ、犯罪者は理解できない邪悪で自分とはまるで異なる存在として切り捨てるのではなく、犯した罪とは別に、そういう人間でも何とかやっていける方策を考えることが、犯罪を減らし、最終的には社会全体利益にもつながるんじゃなかろうか、と考えた。  

 
 んじゃ、それってどういう方法よ、と問われれば、それは私にも判らない。けれど、けれど、店員さんと話をして「人と話すっていいね」と語る心情をすくい上げる方法は、多分きっと私たち一人一人が何気なく行う実にささやかな行為の中にもきっと潜んでいるんじゃないだろうか・・・。