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  これを読んだ。

医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か

医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か

 結構医療系のブログとかにも目を通していると、既知の情報が多いのだけど、それでも文章を通して読むと新たにいろいろ思わされるところがある。
 
 その中でうらやましく思ったのが、こうした本が第一線で働いている勤務医にとって書かれて反響を呼び、そしてそうした医者の提言、例えば(手術の同意書の書式など)が様々な現場で広まっていること。またこの著者が著書を契機として司法や行政などの様々な場面で意見を発信できるようになっている、ということ。
 
 問題点を熟知する現場の声が様々なところに届かない、と言うことは多くの問題を生む要因になっているだけに、こうしたことが読み取れるのは嬉しい。もちろん、その歩みは遅々たるものかもしれないし、著者から見ればまだまだかもしれない。けれど、それでも主に絶望と逃散の現状から成る多くのブログだけからではなかなか読み取れない希望がほんの少しでも見える気がした。(この本は2006年出版なので、それからいままでに現状が更に破滅的になっているだけかもしれないが)


 

 そして、同時に同じく崩壊しつつある教育について考えさせられた。ブログをいろいろと見ていて思うのが、現職の教員(とわかる)のブログが恐ろしく少ないと言うことだ。もちろん理科教育とかで自分の開発した実験などを掲載しているwebはある。しかし、現職の教員であることを隠さずに教育や社会の問題について自分の意見を述べているブログは恐ろしく少ない。

 例えば、先日朝日新聞の一面に免許更新制の具体的な方策についての記事が出ていた。同じ日に、「免許更新制」「メリット」「デメリット」などといった言葉を組み合わせて検索をかけても、現職の教員の生の声はなかなかヒットしない。かなり関心の高い話題なはずなのに。教育系ブログのサイトでも、現職教員によるものはかなり少ない。もちろんヒットしないようにしているのかもしれないし、私のやり方が下手なだけかもしれない。また、私の知らないMLなどでは積極的に意見交換が交わされている可能性も否定できない。
 しかし、少なくとも同じように「医療崩壊」「逃散」と言った言葉で検索をかければ、もう少しブログがヒットするし、また掲示板などをみても教員による発信はやはり少なく、同時に荒れている。

 ではなぜ現職の教員による発信はなぜ少ないかといえば、多分荒らしが・・・というのが一番に来るだろう。そして、とにかくその時間もなく疲れている。更に、発信しても無駄だと思っている。発信するべきだと思えない。そこまではせっぱ詰まっていない。あるいは、じわじわと熱せられる鍋の中のカエル?それから、社会的な出来事にあまり興味がない。今の毎日で精一杯・・・。

 でも、医者だって猛烈に忙しいに決まっているけれど、それでも発信する。教員はあまりしない。それはなぜか。

 医師は、あらゆる職業の中でも特に専門性の高い職業である。一部の特殊な人は除いて、恐ろしいほどに高度でまた日々緊張を強いられる職業をこなし続ける医師という職業に対する尊敬の念は、まだあると思う。また、医師というのが容易に代替えの効かない存在であり、いなくなれば自分が困る事もある程度判っている。そうなれば、その言葉には必然的にエトスが存在する。

 多分教員はそこまで高度な専門性を持っている訳ではない。かなり専門性の高い職業ではあると思うけれど、一般には誰でもできる職業、むしろ世間知らずと思われている。更に医療以上に身近な存在であるだけに、叩かれやすい。
 そうした中では、この医療崩壊の著者のように、教育の現場の最前線で働く人が何かを発信しても同じように真剣に受け止められるとはとうてい思えない訳で、発言しないのもまあ当たり前?

 

 けれど、一方でこうした現状は恐ろしく危険な事だ。これは教育再生会議に典型的に見られるように、現場を知らない人間によって改革案が立てられ、それが世論に後押しされ、現場の惨状や悲鳴はそこには伝わらない事を意味している。現場の問題点を正確に把握することなしに、改革って・・・。

今の教育現場は多くの問題を抱えている事は確かなのだけど、新たなビジョンを示す場合に現場の声を吸い上げる努力をしているのだろうか。中教審のメンバーなどを見ても、そうした努力はあまり見られないし、そもそも改革したいなら、まずお金をかけるべきだろうと思う。予算を削って成果を求めるのはなしだろう。



 「この改革では・・」と思いつつ声にも出せず、何もかもを受け入れざるを得ない現状がどこまで持つのか、いやはや興味深い。