hyla’s blog

はてなふっかーつ!

本を読む

 

 何か最近「オーラの泉」とかいう訳のわからない番組がある。チラ見しかしていない(できない)が、その目的がさっぱりわからない。
 という私は、スピリチュアルにハマる人には決してならないだろう。というより、何であんな嘘くさいものをみんな信じるの?ってか、マジで信じてたの?というのが正直なところ。なので、これを読んでみた。
 

スピリチュアルにハマる人、ハマらない人 (幻冬舎新書)

スピリチュアルにハマる人、ハマらない人 (幻冬舎新書)



 で、この本によると、スピリチュアルにハマる人というのは、根本的に思考停止で気持ちの良いことを言ってくれるものに反応している。最近のスピリチュアルというのは、これまでの宗教とは異なり利己的な考え方を否定せず、基本的に極めて内向きなもので、だからこそ受けた、ということらしい。

 しかし、それって極めて危険なことではないのだろうか?気持ちよくさせてくれるのなら少々嘘でもいい、と嘘を承知でブームを遊ぶ程度ですめばいいけど、万が一マジで信じる人がいればどうするんだろう。そういう人は思っているような効果が得られなかった時に、また別のものに走るのだろうか?それは何だろうか?いずれにせよ、「嘘」と知ってて、「嘘」を楽しむのならいいけれど、後書きで香山リカが言っているように、「スピリチュアルを信じない人は頭の固い人間として狭量な人」で「「スピリチュアルを信じない」と言う事が言い出しにくい」なんて世の中は非常に困ると思う。


 しかし、恐るべき事だが「スピリチュアル=際物」という認識が崩れてきているのは事実だろう。

 


 先日は新聞で仏教系の宗教関係のところでいわゆる終末医療の現場において死を受け入れやすくするようなケアをする人として「スピリチュアルケア」という資格を認定するなんて事が全国紙に出ていた。これって「スピリチュアル」という言葉が完全に肯定的にとらえられている訳で、良いのか?無邪気に「スピリチュアル」という言葉を使っているが、現在の「スピリチュアル」という言葉が包括しているものに対する認識、更にそうした言葉を既存宗教である仏教が用いることの危険性、そうしたものに対する警戒心が全くないようで恐い。(仏教系の終末医療におけるケアはあっても良いとは思うが、それに「スピリチュアル」をという言葉を使ったら、「スピリチュアルカウンセラー」もアリってことじゃん!)


 巨木や巨石をみれば確かにすごいと思うし、雄大な景色をみれば感ずるところはある。人間の力の及ばないものがあると感じることもある。しかし、だからといって、霊魂やオーラや生まれ変わりや波動やら風水につなげる必要はなかろう。生きていく上でポジティブシンキングの方が楽ならそうすればいい。けれど、あくまで全ての物事は自然科学の法則で成り立つ世界で、人間同士の関わり合いの中で生じるものだと思うし、だからこそその中で互いに切磋琢磨し協力し、共存するのだと思う。

 

 結果は行為についてくるもので、波動が教えてくれるのでも、風水によってもたらされるものでもない。こんだけ「自己責任」ばやりの世の中において、これまで以上に「自己責任」を放棄するというのはその責任に絶えられないからなんだろうか。不幸の原因を波動や風水やオーラや過去霊に「責任転嫁」するってことは、自分自身の行為の振り返りとかそれに基づく次の選択とかができないってことで、そういう思考放棄した状態って、恐くないのだろうか?それって前を見ずに言われるがままに車を運転するようなものではないのか?そう言う状態は、うかうかしているとどんどん流されだまされる訳で、民主主義の基本が成立しなくなりそうで恐い。
 

 しかし、それでも「スピリチュアル」にすがると言うことは現在の社会の中で予測されるものがあまりに暗い事ばかりなのかもしれない。現代における「平等」は「無能力は自分の責任」というものだから、「負け犬」と自覚した時にそういう現実の自分をネタにして笑える気力や発想がなければ、気持ちのよい言葉に走るのもしょうがないのかもしれない。

 

 ただし、立派な負け犬である私は死んでも理性は手放したくないので、これを読んでついついドーキンス神は妄想である―宗教との決別を注文しました。

 
 さて、この本ではスピリチュアルを信じる人については語っているけれど、「ハマらない人」については分析していない。香山リカ自身は「スピリチュアルブーム」に違和感を持っているようだけど、ハマらない人を分析する事で「スピリチュアルブーム」の危険性を回避する手だてが見つかるのでないだろうか。どっちかというと「びょーき」な感じに近い人に対するシンパシーを前面に出さざるを得ない精神科医としては難しい注文かもしれないが、そういうところも是非お願いしたい。